Stack-Style: 我々はなぜコナミのへたれアニメを愛してしまうのか
コナミアニメと言われているおとぎ銃士赤ずきんとセイントオクトーバー。これが何故楽しまれているかという話だが、リンク先において謎とされているが、そもそも「ストーリー性の高い作品」や「迫力ある動きまくり」などは十分条件ではあっても必要条件ではない。
むしろ場合によっては「ストーリー性の高い作品」は視聴者に求める思考力の敷居をあげてしまい、「迫力ある動きまくり」は画像処理によって脳に負荷をあたえ疲れさせてしまう。
これはアニメに限らず、映像作品作りにおいてよくある誤解であり失敗の元である。
# アマチュア映像で眠くなったり疲れたりする作品がこれである
むしろ、例に挙げられている程度の軽いストーリーであれば、状況解釈に頭を使うこともない。コストを下げたリミテッド作画が大半であればキャラやストーリー、パーツや単語に対して視聴者があれこれ考える余裕もできる。(一般的にバンクで処理される高コスト作画の部分があれば、最低限の動画的欲望は満たすことができる)
故に、キャラ萌え作品ではこういうものが多いのである。
設定についても同様。設定は表現される必要がないのだ。なぜなら、それを知ろうとする欲望がある視聴者にさえ提供できればいいのだから。(そしてそれは昔はムックであり、今はwebである)
ハルヒの憂鬱において story tellingの時間軸云々や細かいキャラ設定はまさにコナミアニメと同じである。そこにプラス要素として脳の処理能力の上限をつかわせるED作画(あれは見ればわかるが画像自体も空間周波数がたかいために視覚処理に負荷がかかっている)で、ハイの状態を作りだしている。だから、麻薬的要素たりえるのだ。
これは、高密度なストーリーと作画で知られる押井守作品で必ず挿入される「BGMのみで展開されストーリーの展開しないシーン(=カット群)」を見ればよくわかる。あれは、視聴者の脳内にたまったデータを処理してまとめる(平易にいえば飲みこむ)ための時間なのである。
映像作品は、あくまでも脳内で有限の処理能力で処理され、視聴者の感情を操作する道具である。作り手は、それを理解せねばならない。さもなくば、食いっぱぐれるのだから。
視聴者は…好きに楽しめばいいんでないかな(笑) 趣味それぞれだし。私? 私はおっぱいとかおしりが出てくるアニメが好きだな!